私の家の、居間のテーブル上には、動物アイテムがいくつか並んでいる。
生きた動物を飼うことが許されない借家住まいゆえ、知らず知らずのうちにこういうことになっているのだろうか。
実家で産まれたハドソンという犬とその息子のバク、を模した人形。
台湾で買った翡翠の亀にカエル。
ペーパークラフトのゴールデンレトリーバー。
そして、虎の毛皮と生きた猫をお手本に描いたという、超ラブリーな円山応挙の虎のふすま絵、をプリントしたミニクリアファイル。
なぜかゼニガメまでもが卓上カレンダーの横にちんまりと這っている。
お客人がおいでになると、それらを一斉にお客人の正面に向けることにしている。
人形傀儡偶像の類いだから、もちろん一言も口をきかない。
でも、気は心なのだ。
(私を含め)こんなにちまちまと何種類もの動物が揃いも揃って自分の方を向いてくれている状況は、どんな人にとっても決して寂しくはないよね、と思うのだけれど、実際はどうなのかしら。
つい先日お越しになったお客人がバク人形を「よしよし♪」となだめながら豪快に押さえつけてくれたため、バク人形の四肢は放射状にひろがって、まるで夏バテした犬のように冷たいガラステーブルの上にぺったり腹這いに突っ伏してしまった。
ある女性などは「どうも顔が曲がっているような気がする」とかなんとか言いながら鼻先をムギューっっっっとへし曲げようとしたり、バク人形はそれは大変な受難ぶりなのだ。
しかし考えようによっては、それだけ彼がお客人達から可愛がっていただいていることの証なのだろう。
それにしても、我が卓上動物ライブラリーには猫アイテムが見当たらない。
これまで猫をほとんど飼ったことがないからなのか、私は猫との接し方がよくわからないのだ。夜の猫は愛くるしいけれど、昼間の猫の目はおそろしくて正視できない。そもそも100愛情を注いでも3から5ぐらいしか見返りが望めないのが理不尽だし、あの細く鋭い爪も苦手だ。
しかし、いいかげんそんな普通でつまらないことを言っていないで、いっそ巨大な招き猫のひとつでもドカンと置いてみようじゃないか、とも、うっすら考えている。
飼ったことの無い動物を愛するというのも、人間修行の一つなのではないかと、ちかごろ思う。
育てたことのあるもの、愛したことのあるものは、もうそろそろ卒業して、ぜんぜん知らないものに囲まれてやっていくのもめっぽう楽しそうだ。
と、ちかごろ思う。